昭和45年9月7日 夜の御理解



 すべての事を有り難うございますと受けていけれる自分になろうという今月の信心の焦点ですが、いつもこのことには取り組んでおる、まあ、それが信心だと、まあ、思うておりますけれど、いよいよそのことだけに焦点を置いて取り組ませて頂きますと、今までの有り難うございますの受け方の目の粗い事に、それに改めて気がつかせていただく、皆さんどうでしょうか。
 だから、それが私は一つの事を焦点に、そのことだけを、言うなら専門に勉強するというか、そのことだけを焦点にして研究すると言うことの私は値打ちがあると思うんですよね。
 皆さんどうでしょうか、何か感じられたことないでしょうか。私は昨日今日の体験を聞いて頂くならですね、ここ三、四日、とりわけ、この歯が全部とってしまって、それでもう、やはり朝の御理解がせっかくの御理解の皆に聞きよるようにしてあらにゃ行かんと思うから、無理に歯をはめてお話を致します。そすと、熱が出だしますですね、そんな訳で、まあ、休ませて頂きますわけですけれども、私は毎日、もうこれは必ず言うておるぐらいに、たくさん水を頂きます中に氷水を一杯頂きます。それも、もう、大きなおそうめんを頂くようなガラス機のどんぶりのような大きな水を頂くな訳ですが、もう、食べさせて頂いてですね、必ず一回か二回かはあるんですが、頭がね、頭痛しだしてくるとですよ。あの、もう、ここへんの言葉で言うと、もうちょいと頭痛こきだすごたるちいうと、あれは本当ですね、冷たいもの食べたら頭痛こぎたい、こぎたい。皆さんも体験があるでしょう。それでもね、私は昨日からね、あの、せっかく頂いてから、こげんなん苦しい、苦しいけれども対したことはないけれども一時しとりますと良くなりますけれども、これは有り難うございますの頂きようがまだほんなこっちゃないなあと思いましてね、もう、本当にこの有り難うございますという、いねりをね、あの、感じさせて頂いてね、頂くんですよ。
 ところが、昨日から不思議にね、痛みがないんですよ、はあ、本当に有り難うございますとかなんとか言う、だからね、有り難うございますとすべてのことをというておりますけれども、あれはすべての物も含んでおる訳ですから、お風呂を頂くでも、御飯を頂くでも、私はただだれでも感謝しております、もう、拍手打って頂きよります。もう、有り難うございます言うて、自ずと御礼を申し上げますというようなものじゃいかんという事。 それをですね、本気で今月はね、有り難く頂くという、これは物でも、事柄でもそうなんですけれどもね、そこからね、今までと違った働きが生まれてくるとですよ。そすと、それが身についてくることになると、いわゆる、有り難うございますと言えれることが大変なことに有り難い事になってくるんです。
 私はそのことをね、(  ?  )神様っちゃ不思議なこっちゃあるな、ただ有り難うございます、頂きますというだけでは頂きよるとですよ、時だまはそうです。ただ、本気で神様にですね、頂きますを、もう、いわゆる、あの、祈らせて頂き、祈りながらという頂き方になったらぜんぜん頭が痛まんとですよ。頭痛せんのですよ。
 有り難いなあと思うて御礼を申させて頂きよりましたらね、御心眼におじいさんがね、もう、大きな孫をおんぶしておられる所を頂くんです。孫と思われるような姿ですよね。それが、もう、孫をおんぶしておられる、いうなら、おんぶしとりゃいいけれども、おじいさんはこう曲がってから(  ?  )、孫はもう、ただうれしいばっかりと言ったようなことで、おじいさんの背中でこうこうやって、その、おぼっていきよるとです。こいつが危なかが、危なかがというような格好ですよね。
 私はね、それを頂いてから改めてね、分からせて頂いたんですそのことで。ということはね、有り難うございますがね、おどったような軽いことになってはいかないということ。ね、私どもが頂きまーすちいうて、なら、御飯でも頂きますでしょう。ただ御神訓を唱えただけじゃいかん、もう、本当に頂きますというものがね、真剣にあると言うことは、いわば、おんぶされておる、それに、こう、しがみつくようなもの、しがみつくような思いでね、おんぶしたら、おんぶしておる者も楽ーなんです。せっかく有り難いものを頂かせてですね、ほら危ないが危ないがというて、いわえる、頭痛をさせやなさるのはそのことなんです。ね、いわゆる、氏子の苦しみは神の苦しみと仰るが、私どもが、なら、確かに氷一杯頂いても頭痛するという、例えば苦しみがですね、神様が喜んでくださるはずがないです。真剣にしがみつくような思いでですね、私どもが、神様頂きます、有り難うございますと言う頂き方になりゃ、神様も楽におんぶしてくださる、私共も頭を痛まんで済むと言うようなおかげになってくるんです。
 これは、私は今月の有り難うございますと頂くということは、これは大変なことを頂いたなあとだから思っております。昨日、今日それを実感しております。皆さん、私が言うたことが意味がわかったでしょうか。分からないならこれは大変な有り難いことなんですから、しかも、おかげのすぐ直結することですから、よくよく、何べんでも聞きかえして下さっていいですから説明します。ね。
 というようにですね、有り難い、有り難う受けると言うことはね、ただ、もう、お食事の時にこうやって拍手して頂きますと言うようなことではね、それは軽い、それは丁度おじいさんの背中に、ね、何にも分からない孫がおんぶしてから、おどって追われておるようなもんですから、ほら危なか、危なかそげんするなら、軽い、有り難いじゃいかないということ。ね。これを真剣にです、真剣にしがみつく思いで、あの、頂きますとか有り難うございますとかと言うことをです、私どもの生活の中からですね、事柄の上にも物の上にもですね、(  ?  )上に有り難うございますを、で受けていくなら、受けていく生き方がもっと真剣にね、おかげを頂いていかなければいけないということ。( ? )皆さん分かったでしょうか、もう早速今ら実行の出来ることです。
 昨日、一昨日でした。私が体がこんなにありますから、若先生に、これはもうお父さんがこげーん体が弱くなったから朝のお勤めが済んで、一通りのお届が終わったら勝彦さん、なるほど他の先生方でもいいのだけれども、やっぱり、あの、副教会長としてあんたがおるけん、あんたが私の代わりに奉仕をしてくれにゃいかんねと言うて、なら僕がおかげを頂きますと言いましたが、一昨日は丁度( ? )できませんでしたから、今朝から、もう早くから一通り済みましたら御結界についてくれました。で、私はすぐ裏で休ませてもらい、午前中は久富重雄さんの奉仕を受け、午後から、また久富先生にいろいろご迷惑をかけたわけですけれども。(  ?  )ならんほどに体がきついとですよね。
 もう、お水をずうーっと冷たい水で冷やしておるですから、もう( ? )ずうーっと冷たいタオルをこうたい、もう、せからしかなと思うけれども、もう、わざわざタオルを替わりもってこなんほどに、ここ、( ? )が少ししてあって入るんですよね。それがね、私今日実感しましたことはね、若先生がもう午前中奉仕してくれとる思うたらね、私の体がガタガタっと崩れるように今日は感じました。これは極端な言い方ですけれども、本当いうたらそんな感じでしたよ。だから、これはですね、これはー、あの例えば生時期からね、安心なんかということはいけないなと思いますね。
 これは、まあ、いつも例にいうんですけれど、山本の私の従兄弟の子供会に( ? )おられますが、あちらのおじいさんがもう、(  ?  )だったですけれども、大坪さんがシベリアに抑留されておられる間は、もう自分がたくさんの女子ひっつこうちから、植木屋さんですから、自分が先頭に立って草取りやらしおんなさったです。ところが息子の太郎さんちおりますが、太郎さんが帰ってきなさったら、もう、途端にガタガタっと体が崩れるように( ? )なさったからすぐ亡くなられました。
 だから、本当にかえって親孝行やら親不孝やら分からんと言う意味の時にはこんな話をするんですけどね、必ずなでたりさすったりすると言う事が親孝行と言うことではないと言うことと同時にです、今日はそういうものを感じました。もう若先生が午前中私が下がっておる間、若先生が出てくると思うたら、まあ、誰が座っておってくれるも安心する訳ですね。安心したらね、それが、安心したら私の体がガタガタっと崩れるように、もう今日は4時の御祈念にやっと出ました。ぐらいでした。
 それから、そのこと気付かせて頂きましたからね、こーれはまだ若先生に頼ってとでも出来んことを思うてですね。これは、それこそ今日の、昨日今日体験させて頂きよるそのことに対して色々分からせて頂くことがございましてね、これはお願いしてからでもこれはいっちょ明日からまたがんばらせてもらわにゃいかんなあと思いよる訳ですけれどね。 あの、まあ、もう息子がこれだけ成長してくれたからというて、まあ、(安閑?あんかん)なね、安閑とした安心とでも申しましょうかね、いわゆる、その、もうヤレヤレと、これが信心にいかにいけないこと。いつも信心にはさあーと、これからとかといったようなものなからなければですね、例えばお参りが出来ん、最近北野の方達が朝の御祈念に参って見えますが、あれなんかでも、ほんのちょっと、こういこつじゃいけんと思いましただけで( ? )参って見えることが出来るようになったんではと思いますよ。
 人間の心と言うものは、もう本当に心次第です。元気な心で信心すると言うこともですね、私はうかつなことに頼ったりすがったりすることではなくて、これは、本当に、これは私の今日一日の体験からですね、本当に若先生が御結界座ってくれとると思うただけで、いわば、安心したんです。それはね、信心で言う本当の安心じゃない訳です。いわゆる、ヤレヤレと言う安心なんです。ヤレヤレの安心ぐらいなことでね、お互いがまだ腰掛けおられない人ばーっかりなんですからね、実を言うたら合楽は、ですから、こういうようなところにも一つ心をまいっちょ置き直してですね、本気で信心の信用に取り組まなきゃいけないなということも今日は実感したことでした、同時に今、まあ今月の有り難うございます、受けていくと言うことは事柄だけではない、一切のことにそうなんだけれども、一つ今月は( ? )焦点がおかれてあるのでございますから、お互いね、そのことを本気で皆さんなりの有り難うございます、もうちっと本当なものにして行ってくださいませ、そこからね、不思議な不思議な働きが生まれてくる。ね、そういう体験を昨日( ? )させて頂いておるですね。 
              どうぞ。

入力者=末永静行